酔いどれ介護者の減塩食日記

減塩食レシピ作りで料理の修行中。介護の日常と非日常・・・タフでなければ介護はできない、優しくなければ介護をする資格がない。

親父が死んだ

日曜日の朝、入院先から父が危ないと連絡があった。母を連れて、病院に急行した。病室の患者は父一人だった。酸素マスクをしていても、息は荒く弱かった。体は冷たかった。手足はむくんでいた。呼びかけへの反応もなかった。

やがて、弟が来た。「家に帰りたいんじゃなかったの!」。二人でかなり大きな声で励ます。すると、薄目を開けた。見えてはいないようだったが、何かを訴えるかのように声の方に体を向けて、手足をばたつかせた。昼前には、血圧も上がってきた。

これで最後だとは分かった。でも、長丁場になりそうな予感がした。看護師はいったん家に帰ってもいいと言う。ただ、この状態で父を一人にするのは忍びない。弟と2、3時間毎の交代でそばにいてやろうということになった。この日はまだコーヒー以外何も口にしていなかった。母と俺は家に戻った。

帰宅直後に、携帯が鳴った。その受話口から、弟の「親父、頑張れ」の声と心臓マッサージをしている様子が聞こえてきた。母と急ぎ病院に引き返した。間に合わなかった。父はもう息をしていなかった。

これまでに何度も危ないときはあった。その都度、父は乗り越えた。俺も毎回まだ大丈夫だろうと思ってきた。ネフローゼになったときには、医師から長く持っても2年と言われたが、その2年間も風邪一つすることなく乗り切った。専門的な医者の見立てよりも、身近で接する素人の自分の勘のほうが頼りになるのではとさえ思った。

だから、今回の肺炎も持ち直すのではないかと思っていた。勘なんかじゃなかった。ただの願いだった。妹に連絡をする。弟によれば「苦しまずに逝ったよ」と告げたときに、初めて涙が出てきた。母や弟は泣かなかった。でも、俺は泣くのかと冷静に思った。目元に薄っすらと涙をたたえた父の死に顔は、穏やかだった。

入院から一週間後の日、父がまだものを食べられていたとき、母が見舞いに行っている。母の話によれば、父は病院の食事やお茶がまずいと嘆いていた。「うちのご飯のほうがいい?」と聞くと、頷いたという。

失語症でうまく話せないから、口元に手をやる仕草などからの判断だ。本当にそう言っていたのかは分からない。全然違うかもしれない。きっとそうなのだろうと思って、対応する。あるいは、対応できない。それが失語者の介護だった。親父、俺の作る料理はうまかったのかい。

いちばん身近で接し、いちばん世話をしてきた身なのに、死に目に会うことはできなかった。でも、不思議とその後悔はない。介護は不意に始まり、出し抜けに終る。すぐに葬儀の準備を始めなくてはならない。父を家に連れ帰る。夕方、俺の腹の虫が鳴った。母は腑抜けのようになっている。俺は何か食べなくてはいけない。

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