酔いどれ介護者の減塩食日記

減塩食レシピ作りで料理の修行中。介護の日常と非日常・・・タフでなければ介護はできない、優しくなければ介護をする資格がない。

俺が介護で悲惨な事件を起こさないで済んだワケ

俗に、遠くの親戚より近くの他人という。失語症だった父の場合にも、それは顕著だった。心筋梗塞で入院していたときは、親戚もよく見舞いに来てくれた。困ったことがあったら、いつでも手を貸すとまで言ってくれた人もいた。でも、父が脳梗塞になって言葉を失ってからは、ほとんど顔を見せなくなった。

在宅介護を始めた頃、いちばん近い身内にメールをした。忙しいのは分かっていたから、愚痴をこぼしただけだった。それなのに、「私を頼らないでください。今の自分があるのは父母のおかげなのだから、頑張って介護してください」というにべもない返事を寄越した。では、いったい今のお前があるのは誰のおかげなのか、自分は木の股から生まれてきたとでもいうのかと、皮肉の一つを言う気力も一気に失せたことを覚えている。

別に非難するつもりはない。何を言っているのか分からない人の相手をするのは、確かに苦痛だからだ。それでなくても、頑固な年寄りだった。世話が焼けた。俺が彼らの立場だったら、同じように手の平を返したかもしれない。

介護サービスという形で接した、近くの他人はみないい人たちだった。そもそも駄々っ子のようにデイケア(通所リハビリ)に行くのを嫌がった。通うようになっても、あれこれと拒絶した。それが仕事とはいえ、そんな父に明るく、根気よく当たってくれた人たちだった。週に1回、同じ施設に通っている母の話によると、そのうち施設内での父の笑顔が増えたという。軽口のやりとりであればコミュニケーションも成り立つのか、施設の人は父の言葉が分かるとも言っていた。介護をしていると、時にひどい話も耳にする。俺は恵まれているところがあったと思う。

でも、そういう善意や親切が介護者にとって重荷になることもある。例えば、父はいつからか排便に苦労するようになった。すると、訪問看護師はこともなげに浣腸という手段を持ち出した。看護師は月に一回来るだけだ。日常的にそれを使う羽目になるのは俺だ。おいおい、待ってくれ。もう手一杯なのだから、そうやすやすと俺の仕事を増やさないでくれ。

勧めに従って一度は処方してもらったものの、結局は使わなかった。主治医と相談して、排便は下剤で管理することにした。何もかもベッドの上で済ませることに抵抗もあった。家の中に車椅子を持ち込む際にも悩んだことだが、できるだけ自立の芽を摘みたくなかった。

いずれにせよ、ケアマネさん、主治医の先生、訪問理学療法士さん(父は途中でおのれのわがままからクビにしたが)、訪問ヘルパーさん(こちらも一人を)、そして介護施設のスタッフの皆さんの甲斐甲斐しいサポートのおかげで、俺は介護疲れで倒れることもなく、悲惨な事件を起こすこともなく、最後まで父の面倒を見ることができた。感謝している。でも、もう一人、この記事で感謝の言葉を伝えたい人がいる。

主治医の訪問診療も月に一度だった。その日の夕方、買い物がてらに薬局に薬をもらいに行くのが常だった。薬が半端なく多かったせいか、薬局の人は俺の顔をすぐに覚えてくれた。

「お父さんの具合いはいかがですか」。彼らはもちろんプロだから、薬の中身と量から、父がどんな状態なのか手に取るように分かるのだろう。父のことは直接には知らない。会ったこともない。それでも親身になって、いろいろと聞いてくれた。案じてくれた。仕事上の作法にせよ、その想像という心の働きによる気遣いがうれしかった。在宅介護者にとっては、何よりもそういうことが胸に染みた。

浣腸を出してくれたのはその人だった。「お使いになるのは?」「僕です」「使い方は分かりますか」「訪問看護師さんに教わりましたが、まだ心もとないです」といった会話の後、彼女はおもむろに箱から浣腸を取り出し、懇切丁寧に使い方を教えてくれた。「実際に試してみたいので、お尻を貸してくれますか」と頼めば、喜んでお尻を貸してくれるのではないかと思わせるほど、優しそうな人だった。年の頃は30代半ばか。今の薬師丸ひろ子とどことなく似た、かわいらしい顔立ちの人だった。

最後の入院費を病院に払いに行った際に、主治医にこれまでの礼を言った。薬局は隣りの建物にあったから、薬局の人にも父が死んだ旨を伝えてあいさつした。ただ、その日は休みだったのか、彼女の姿はなかった。

彼女の顔を見ることが、声を聞くことが、月に一度のささやかな楽しみだった。もう会うことはないだろう。さらば愛しき薬局の人よ。何だ、そういう話かよって? そう、半分は、そういう話。

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