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ハードボイルド的減塩食介護日乗

減塩食レシピ作りで料理の修行中。介護の日常と非日常・・・タフでなければ介護はできない、優しくなければ介護をする資格がない。

ハードボイルド的介護日常

その前日は、タンスの下敷きになっていた。下段の引き出しに足をかけ、上着掛けの上にある物を取ろうとしてタンスもろともひっくり返った。壁や塀と違って、タンスというものには奥行きがある。それで助かった。

だから実は、相当に具合が悪かったのだろう。13年3月のある朝、自らタクシーを呼んで、かかりつけ医に駆け込んだ。町医者は驚いた。一刻を争う事態だった。急ぎ、息子の俺も呼ばれた。救急車で隣市の総合病院に運ばれた。心筋梗塞だった。

それでも、処置は間に合った。 酸素吸引と点滴で落ち着いた様子に、こちらは胸を撫で下ろした。前年、母も心筋梗塞になった。足腰は悪いが、まだ一人で歩くこともできる。父もこれで済んでいればよかった。今つくづく、そう思う。

父は入院中、俺の連日の見舞いに恐縮してか、財布を開き1万円を差し出した。「これで一杯飲んで帰れ」。これが父との最後のまともな会話になろうとは、そのときは夢にも思わなかった。

カテーテル検査のあとに脳梗塞を発症した。万馬券だって、これまでに二度ほどしか当てていない。それなのに、宝くじ並みの確率の不運に見舞われた。一命は取り留めたが、右片麻痺失語症という重い障害が残った。

本人はちゃんと話せていると思っている。ちゃんと聞けていると思っている。専門用語を使えば、病態失認。分かっていないということが分からない。認識の根源の、そのまた根源を司る脳のありかをやられてしまったということなのか。回復期リハビリ病棟に移っても、最後まで鬼の形相で言語のリハビリを拒んだ。

半年ほどの入院と体のリハビリ(こっちは機嫌よくやっていた)で、右麻痺の状態は少しよくなった。でも、常に見守りが必要な体であることに変わりはなかった。まくし立てるちんぷんかんぷんもそのままだった。家族なら多少分かるのでは?と、医者に聞かれたことがあった。残念ながら、分からない。それでも、俺は退院のときに、言葉は通じなくても思いは通じるだろうと答えた。

それは、J-POPの歌詞のように甘かった。甘い考えだった。

在宅介護を始めてから丸3年が過ぎた。1年目は地獄のような毎日だった。そこまでひどくはないが、今でも時々こんなことが起こる。

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去年の秋の一日、夕食時に父が口を開いた。相変わらず、まともな言葉は1語として出てこないから、何を話そうとしているのか分からない。一足先に食事を終えた俺は、食後のおむつ交換と翌日のデイケア(通所リハビリ)の準備のために2階に上がった。そのときに、下から大きな物音がした。

失語症者の言葉を理解しようとする姿勢は尊い。でも、分からないものは分からない。だから、母には常々、話を受け流すか、話をそらすようにと言っている。それなのに、最後には語気も荒く「お父さんは何を言っているか分かりません!」とやるから、父も切れる。まだ、おかずやデザートの柿(黄色いの)が入った皿や水のコップをテーブルや床に叩きつけた。

ウェルニッケ失語症は病識が低いので平然とジャーゴン(意味不明の言葉)を話す。相手の言葉は雰囲気や状況から分かった気でいる。そして、自分の話し方を棚に上げて「なぜ分からないのか!」と感情的になる。父はもともと「家長の言うことが聞けないのか!」の人だ。だから、自分に逆らった妻への怒りもあるのだろう。

一般的な失語症の本にはたいてい、「分かってあげられなくてごめんなさい」「いえ、私の方こそちゃんと言えなくてごめんなさい」と言える関係を作ることが大切だなどと書かれている。でも、それは自分が失語症だと認識できている人への対処法だった。父のような場合にはまったく通じない。

病識の獲得は時間がもたらしてくれるのではないかと、淡い期待もした。無駄だった。でも、父も86歳だ。意思の疎通がうまくできなくても、きっともう、このままでいいのだろう。「痛い」「寒い」「かゆい」「目が見えない」「入れ歯が痛い」・・・ありとあらゆる不調を訴えるが、言葉が喋れない、分からないという苦痛だけは訴えない。テレビのお笑い番組に昔なじみの落語家や漫才師が映し出される。多分、ネタの内容は理解していない。それでも、笑っている。笑えている。

父は生傷や内出血も絶えない。感覚のない側の手や足が勝手に動き、ぶつけても気がつかない。それでも、怪我は自然に治る。骨と皮の体になっても、きちんと食事をすれば、やがて元に戻る。年を取っても大病をしても、体はなお生きようとしている。

そういう命だから、手を差し伸べる。その甲斐があって、よくなる人はいる。でも、変わらない人、衰える人、死んでいく人もいる。覚悟はしている。今は、そうしたすべてを引き受けるのが、介護という仕事なのだと思っている。